存在不安は存在で返すしかない―『5つ数えれば君の夢』

きっと何者にもなれないお前達に告げる!
(『輪るピングドラム』プリンセス・オブ・クリスタルの台詞)

自分は何者なのか、何者かになれるのか、何者にもなれないかもしれない、何者かになれるはず、何者かになりたい!

これが思春期の何者五段活用(嘘)。

映画「5つ数えれば君の夢」は、そんな思春期の存在不安をめぐる群像劇。スクールカーストの描写もあり映画「桐島、部活やめるってよ」を連想させるが、結末に向けたドラマの展開がまるで違う。

クライマックスで、ある人物が「自分が何者か」を証明する場面は鮮烈。胸の空くような場面でもあり、同期に果てしなく孤独を感じさせる場面でもある。すなわち、自分が何者かになるということは、すなわち集団に心地よく同化し埋没できなくなることも意味する。

山戸監督は、過去作品にオマージュを捧げることはしないそうだが、女子校で学園祭に向けて昂ぶっていくドラマでは「櫻の園」を、他の誰のためでもなく自分自身のために自己を解き放つダンスの場面は「花とアリス」を思い出した。この作品にも、そんな痛みと美しさと儚さが共存している。

思春期独特の不安や情熱や残酷さは、実にひりひりするものだ。今の僕には全てが懐かしいが、実際にはつらい日々だろう。岩井俊二の「リリイ・シュシュのすべて」に通じる世界観だが、「リリイ」が赤裸々なヴァイオレンス描写ゆえに見ればトラウマになるのに対し、「5つ数えれば」の方はそういう場面もギリギリのところで隠喩にとどめている感があって、何度も見たくなる。

ところで、東京女子流の演技がどうか、というと、これが全く悪くない。

孤高の存在感を醸す新井ひとみ、硬い優等生の殻で武装した中江友梨、心の中に闇を抱える庄司芽生、情念たっぷりで鬼気迫る小西彩乃、そして山邊未夢。彼女はドラマを通じて自己の存在を見出すという難役を自然に演じた。「桐島…」での東出ポジション。と、冷静に書いたところで、アイドルヲタっぽいことを言えば、ガチ恋で病んでるあぁちゃんサイコー!!(笑

エンドロールで流れる東京女子流の「月の気まぐれ」も良い歌で、スイングするリズムがたまらない。

映画終了後、山戸監督と中森明夫のトークショー。中森明夫は自分語りが過多で、もう少し監督の想いを引き出してほしいと思わないでもない。印象に残った監督の言葉は、「存在不安については、存在で返すしかない」とかいう言葉。この映画の本質をものすごくよく表している。

トークショー終了後、ロビーに来た山戸監督に感想を伝えた。「すごく良かったです。ひりひりして、傷付く感覚を思い出しました」と。山戸監督、哲学者のように内に潜るような雰囲気あったけど、かわいらしい女子でもあった。

ちなみに、パンフレットも買った。美しい写真、読み応えのある文章、凝った装丁、そして手頃な大きさ。こういうこだわりのあるパンフレットって最近少なくなった。宝物にしたい。

総じて、思春期を描いた映像作品として秀逸。「東京女子流のアイドル映画」っていう思い込みがあると足が遠のく人もいるだろうか、そこはあまり強調せずに宣伝して欲しいし、多くの人に見て欲しい。

f:id:SHARP:20140313012254j:plain