喪失と恢復の話―村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

村上春樹の書下ろし長編『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだ。

前作『1Q84』のときのは、早売りを求めて大型書店に行ったところをTVのインタビューにつかまってしまうという失態を犯したので、今回は焦らずに発売日の夜の書店で購入し、一気に読んだ。

ネタバレを避けつつ感想を記すとすれば、『ノルウェイの森』に通じるものがある。喪失と恢復のお話。主人公の多崎つくるは学生時代に大切なものを喪い、傷つく。そして時間をかけてその傷を癒していく。ある女性の助けを得て。文体は村上春樹らしく洗練されている。まるで、この作品で描写される沙織の服のように。

沙織の外見が気に入ったのと同じように、彼女の身につけている服にも好感が持てた。飾りが少なく、カットが自然で美しい。そして身体にいかにも心地よさそうにフィットしている。印象はシンプルだが、選択にけっこうな時間がかけられ、少なからぬ対価がその衣服に支払われたらしいことは、彼にも容易に想像できた。
(p.19)

そう。主人公を救う沙織は理想の女性であり、彼女のまとう服の特徴こそ村上春樹の美意識が投影されている。飾りが少なく、カットが自然で美しい。まさに。そして、印象はシンプルだが、選択にけっこうな時間がかけられている。なるほど。少なからぬ対価が…まあ、そうですよね、と。

この描写の直後、村上春樹お得意のセックスの場面になるのだが、全く官能的ではなく、観念的である。なんというか、慎ましい宗教的儀式のように。

現在と過去を往復して多崎つくりは自分の失ったものを確かめ、自分を取り戻す。その過程で、夢と現実の境界は曖昧なままにされる。肝心の謎も謎のまま残ってしまう。それが文学なのかもしれない。それが世界なのかもしれない。だが、このはぐらかされた感じは、いつもの村上春樹作品に増して強い。

僕らは何かを喪うだろう。だが、それをこの作品のような形で恢復できるとは限らない。多くの場合、理不尽であると受け止めたり、あるいは忘れることで何とか生きようとする。それが現実なのではないか。

そのような現実に比べれば、この作品は夢物語である。それも、あまりに曖昧模糊とした夢で、ここから何らかの示唆を得るのは難しいくらいだ。レクサスとも、ビジネスセミナーと無縁で、虚業ではなく、純粋に何かを「つくる」世界であることがは分かる。だが、僕らは何かをつくることができるだろうか。そんな世界に生きているのだろうか。そんな疑問は残った。

村上春樹作品としては平均的。調和は取れているが、カタルシスを得るような作品にはなっていない。新作ということで期待が高まったが、『1Q84』のBook1,2のときの方が熱狂的になれた。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年