撮る/撮られる―『箱男』

フォトグラファーは、「撮る/撮られる」の関係において、つねに撮る側である。では、「見る/見られる」の関係においてはどうか。

見落としがちなことであるが、フォトグラファーは見るだけでない。彼が何かを見ているとき、彼は誰かに見られているのだ。

だが、もし、見られることなく、撮影できるとすれば…それはフォトグラファーが自己の存在を消して「箱男」になったときである。

ということで、三冊目の安部公房に『箱男』を選んだ。「箱男」は社会性を消す存在の比喩であると同時に、カメラそのものの隠喩にもなっている。外の光を取り入れ、中ではその光をもとにそれを眺めることくらいしかできないという性質ゆえに。

だが、「箱男」になった結果、彼は匿名性を獲得するのと引き換えに自己を喪失する。箱男は僕なのか、それとも他の誰かなのか。

作品中には安部公房が自ら撮影した写真も挿入されている。いまや携帯電話・スマートフォンの普及で、あるいはデジカメの普及で、誰もが「撮る」存在であると同時に「撮られる」存在にもなった。両者の垣根の低さは現在の特質の一つであると言えるかもしれない。

しかし、安部公房がこの作品で突きつけるのは、撮る側のアイデンティティに他ならない。ひたすら撮るだけの存在になったときに、そこに何が残るのか。フォトグラファーにとっては実に切実な問題であるだろうと思う。


個人的には『砂の女』の方がずっと読みやすい小説ではないかと思う。しかし『箱男』には、より普遍的なテーマが込められているように見える。

箱男 (新潮文庫)

箱男 (新潮文庫)