主体的真理と絶対的真理―萩尾望都『なのはな』

私にとって真理であるような真理を発見し、私がそのために生き、そして死にたいと思うような理念を発見することが大事なのだ。
キルケゴール『日記』)

先日、紫綬褒章を叙勲された萩尾望都の最新作『なのはな』を読んだ。読了して、キルケゴールヘーゲルについて思いを巡らせずにはいられなかった。

『なのはな』の収録作品は以下の通り。

20世紀に生まれた僕らは、原子力エネルギーと共存している。その取り扱いについては、人類の歴史の中できちんと位置付けるべきものだ。それについては、多くの科学者や政治家がさまざまな議論をしていて、その中で真理が見付けられることを期待している。

だが、僕らが大切な人を災害で喪った場合、喪失感をどう整理するのか。それは科学者や政治家の領分ではない。死者や行方不明者の数、ある種の事象の生じる確率、法律的な手続き。そういうものが自分にとっての何らかの「真理」をもたらすわけではない。

表題作『なのはな』は、震災後の福島の家族を題材にとって、親族を災害で喪った人々の姿を描く。かなりのリアリティを感じさせる作品だ。そして、こういう人々の「生」を作品にしたいとの作者の思いが滲んでいる。家族を喪った人にとって、その人が求めるものこそが真理であり、その真理は自分で発見するしかないのだろう。これはキルケゴールの主体的真理そのものだ。

一方、続く3部作の『プルート夫人』、『雨の夜―ウラノス伯爵―』、『サロメ20××』の方は打って変わって、人類は原子力エネルギーをどのように扱うべきかという問題を寓話的に描いている。萩尾望都の筆致は単刀直入であり、ある種センセーショナルである。3部とも類似のプロットを持っており、やや平板ではないかという批判もあろうと思う。だが、この直截的な表現に、彼女の主張が凝縮されているのだろう。科学者や政治家が議論している最中の原子力問題。これは、主体的真理と対比すれば、絶対的真理とでも呼ぶべきものだ。キルケゴール的な「主体的真理」の領域にに留まることなく、ヘーゲル的な「絶対的真理」にまで踏み込んだことは、表現者として勇気のあることだと思う。

そして彼女は「主体的真理」にもひとつの答を用意する。もちろん、主体的真理は自分で見付けるべきものなのだが、そこは物語の作者の特権的地位によるものだ。最後に収録されている『なのはな-幻想「銀河鉄道の夜」』(書き下ろし)は、『なのはな』に登場する人々が、どのようにして失ったものを埋めようとするのか、その可能性の一つとしてありうるストーリーが描かれる。作者は、絶対的真理に対しては苛烈な主張をもって切り込んでいくが、主体的真理に対しては温かなまなざしをもって物語を紡いでいる。

大きな災害により大切なものを喪った人は、その喪失感をどのように受け止め、どのように生きていくべきなのか。支援、除染、復興などという絶対的真理の目線からの取り組みはもちろん欠かせない。だが「私はどうすればよいのか」という主体的真理に対する答は、おそらくどこにも用意されてはいない。本書がそのような答を探す人にとって役に立つものとなりうると僕は思うし、実際にそのようなものになることを僕は祈る。

なのはな (コミックス単行本)

なのはな (コミックス単行本)