「正義」を担う「ヒーロー」を信じられるかー『ウォッチメン』

ダークナイト』は、僕らに「正義」という概念がいかに脆弱であるかという問題を突きつけた。それでも僕らは「正義」の遂行者であるバットマンを疑ったりはしない。彼はヒーローだ。たとえ彼が警察に追われようとも。ホワイトナイトでなく、ダークナイトと呼ばれようとも。

さて。『ウォッチメン』はその先の地平を描く作品だ。ヒーローが警察に追われず、むしろ国家と手を結んだとして、それは正統性を得たと言えるのか。それは「正義」になるのか。

ウォッチメン』では、ヒーローの活躍によって、ニクソン大統領が三選を果たし、ベトナム戦争も一週間でアメリカの圧勝のうちに終わっている。米ソ冷戦による核戦争の危機でさえも、ヒーローが活躍することで・・・(これ以上はネタバレ回避のため自粛)。

こうした世界は、もちろん「理想」などではなく、ある種の「皮肉」として描かれる。そして、ヒーロー達も、暴力を好むものであったり、根深いトラウマを抱えているものであったり、選民主義的な思想の持ち主であったりと、完全無欠ではない。実に人間的な存在としてスクリーンに現れる。

さて、こうした「ヒーロー達」を僕らは信頼していいのか。答は単純ではない(この作品でも明確に示されることはない)。アメリカのような民主主義国家の代表と手を結んだからといって、彼らが正統性を持つことはない。つまり「シビリアンコントロール」が効いていれば良いというものでもない。

また「人類のために」という大義名分の下、米ソの核戦争を回避するために世界情勢をコントロールすることも、正統性を持つことはない。思い出してみれば、『ダークナイト』でも、ジョーカーを追い詰めるための盗聴装置も、必要悪として描かれていたではないか。

ヒーローの持つ暴力的な力は、悪にも正義にも使われ得る。結局のところ、それを「正義」のために用いるかどうかは、「ヒーロー」の自制心に期待するしかない。それに、複数のヒーローが存在する場合には、彼らの潜在的な闘争の中で「自己防衛」というエゴに用いられることは十分に起こりうる。

ウォッチメン』は、この問題に正面から取り組んだ重い作品だ。映像は美しいが、ストーリーは複雑で、示される価値観も難解である。もちろんアクションにはあまり爽快感はない。これら全てがザック・スナイダー監督の意図通りなのだろう。

ウォッチメン」は「見張るもの」という意味だが、「誰がウォッチメンを見張るのか」という問いをこの映画は突き付けている。そして、その答が示されることはない。僕らひとりひとりがそのことについて考えることが求められているのかもしれない。「9.11後の視座から冷戦時のアメリカを眺める」という作品でもある。

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