『あの花』はどこまでセカイ系か

『あの花』がセカイ系だって? いや、むしろ対極だろう―そう思うのが当然だ。

まず「セカイ系」の定義をWikiから抜粋。

主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと。
(…)
セカイ系作品においては、世界の命運は主にヒロインの少女に担わされる。「戦闘を宿命化された美少女(戦闘美少女)と、彼女を見守ることしか出来ない無力な少年」というキャラクター配置もセカイ系に共通する構図とされている。
(…)

代表的な作品名を挙げた方が分かりやすいかもしれない。『エヴァ』、『ハルヒ』、『まどマギ』が、ぞれぞれ、90年代、ゼロ年代、10年代を代表するセカイ系作品だ(10年代代表を選ぶにはまだ早いけれども)。

一見すると、『あの花』はセカイ系の定義から外れている。まず、「世界の危機」「この世の終わり」はない。戦闘美少女も出てこない。具体的な中間項(肉親、学校、社会、バイト先)はそれなりに見えている。

だが、『あの花』の主人公のじんたんは、不登校の高校生だ。自分が何者であるかを見つけられず、ひきこもりの日々を送っている。彼は親によっても友人によっても学校によっても「存在意義」を与えられない。この辺はセカイ系の主人公と酷似している。

そんな主人公が自分を見つめ、他者から承認を得て、自己を取り戻すのは、他ならぬ彼の大好きなヒロインのめんまを通じてのことだ。ここでのポイントは、めんまはすでに亡くなっているが、幽霊としてじんたん以外には見えない存在とてあり、じんたんは実質的にめんまを独占するという特権的地位にあるところだ。

無垢であり、相互に独占的地位を占め、それゆえに唯一無二の存在となっている異性によって全面的に肯定されることによって、主人公がアイデンティティを確立するところは、まさにセカイ系の特徴の一つではないか。

じんたんがめんまの願いを叶えることで心を一つにして、それによってめんまが成仏するというシーンは、『新劇場版ヱヴァンゲリヲン・破』のシンジとレイが一心同体となることでサードインパクトが起きる場面を彷彿とさせる。

すなわち、「セカイの危機」があるかないかという違いこそあれ、くすぶっている主人公が無垢のヒロインによって承認を得て、自分のあるべき姿を見出すという構造は両者に共通している。この点において、『あの花』はセカイ系の構造から完全に自由であるとはいえない。この作品のクライマックスである「めんまの成仏」というイベントが、彼女の家族という「中間項」が不在な場で行わたのも、重要なプロットにおいてセカイ系の骨格を備えていると言える。

こうした特徴により、この作品はセカイ系を好む層の支持を得ているのではないかと思う。言い換える、『あの花』は、「めんまみたいな女の子に受け入れてもらえさえすれば、どんなに厳しい現実があっても、僕はありのままの自分を出すことで、閉塞した状況から脱出できるのに」という願望を投影できる物語になっているということだ。

この「めんまみたいな女の子」の部分は以下のように置き換え可能だ。「レイ/アスカみたいな女の子に受け入れてもらえさえすれば」、「ハルヒ/長門みたいな女の子に受け入れてもらえさえすれば」、「まどかみたいな女の子に受け入れてもらえさえすれば」などなど。

セカイ系では、無垢なヒロイン(きみ)に受け入れられることによって物語の主人公の地位(ぼく)を得る。じんたんもめんまに承認されることによって、「きみとぼく」を中心とする超平和バスターズの物語を紡いだのだと言える。