公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは、達成できない。公正な社会を達成するためには、善良な生活の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはいけない。
(マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』)
震災後の日本。いまほど「正義」が問われているときはない。何を犠牲にして何を守るか。サンデル教授の「正義」に関する講義はもちろん答を与えてくれるわけではない。だが、僕たちに考えることの必要性を教えてくれる。
さて、『許されざる者』。クリント・イーストウッドにとって「最後の西部劇」。監督としても俳優としても。ここで、正義は相対化し、いささか混迷しているように見える。
売春婦、保安官、賞金稼ぎ…。様々な人物が登場し、対立の構図が明らかになる。しかし、誰にも「一部の理」はあるが、誰にも「絶対的な正義」はない。
そんな中で「悪を断罪し、正義の鉄槌を下す」という行為は正当化されるのか。いや、決してされない。「許されざる者」というのは、悪を為すものを指しているのと同時に、正義を振りかざすものにも向けられている言葉なのだ。「許されざる者」とは、イーストウッドが銃口を向ける相手でもあり、銃口を向ける彼自身でもある。この慎重な「相対主義」と「両義性」が、この作品にアカデミー賞を与えたのだろう。
この作品は「独りよがりな正義」に酔いがちなアメリカに向けたイーストウッドの警告だったのだろう。だが、実際には、この作品よりも約10年後9.11テロが発生し、アメリカはフセインを「許されざる者」として成敗するための戦争に突入する。大量破壊兵器の存在を理由に。そして、後日判明するように、アメリカ自身も「許されざる者」だったのだ。
「正義」という概念が内包する暴力性については、クリストファー・ノーランも『ダークナイト』で告発している(参考:ヒーローの本質は暴力〜『ダークナイト』 - Sharpのアンシャープ日記)。それと比べると、いまとなっては、1992年の『許されざる者』の方は、90年代的な相対主義の枠組みに囚われているように見えなくもない。
いまの僕らは、一方的に押し付けるだけの「正義」が胡散臭いということには気が付いている。一方、社会のために何らかの「正義」が必要であることも知っている。問題はどのような「正義」がどのように掲げられるのかということだ。その答は自分たちで見つけるしかない。
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