逃げちゃだめだ〜『英国王のスピーチ』

選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我にあり
ポール・ヴェルレーヌ

即位することとなったジョージ6世にとっては、恍惚と不安というよりも、不安ばかりだったに違いない。逃げ出してしまいたいほどの。劣等感という言葉はまさにこの人のためにあるといってもおかしくない存在。才気煥発な兄のいる次男、左利き、X脚、そして吃音。歴史の歯車が一つでも違えば、彼は国王になどならず、王室ファミリーの一員としてひっそりと生きていくことになったはずだ。そして、彼自身もきっとそれを望んでいただろう。

だが、実際には逃げ出したのは兄の方で、ジョージ6世は国王となることを余儀なくされる。そこには、決して望んではいない国民の前でのスピーチという仕事もついてくる。妻エリザベスが見つけてきたオーストラリア出身のライオネル・ローグ言語聴覚士のところに通ううちに、彼は吃音が自らのコンプレックスに起因するものであることを発見する。「逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ…」と言い聞かせたかどうかはわからない。だが、彼は逃げなかった。そして、過去のトラウマと決別するように、ライオネルと心を通わせていく…

しかし、『英国王のスピーチ』のテーマは、英国王とカウンセラーの身分を超えた交流ではない。ポーランドに侵攻したドイツに対して宣戦布告を表明したイギリスの国民に結束を呼びかけるジョージ6世のスピーチこそ、タイトルの示す通り、この映画クライマックスだ(ネタバレはここでは控えておこう)。

自己を客観視した主人公、抑制的な会話、彩度を抑えたフィルム、クラシックをセンスよく挿入した音楽と、どこを切ってもイギリスらしい映画。アメリカのマジョリティには理解できない作品ではないだろうか。主役のジョージ6世を演じたコリン・ファースは、内気だが国民からは「善良王」として親しまれたこの人物を好演。また、ライオネル役のジェフリー・ラッシュも、この芝居がかった不思議な言語聴覚士をリアリティのある存在にした。この二人の掛け合いは、シェークスピアの劇を見るような手応えがあった。そして、ジョージ6世のエリザベスになりきったヘレナ・ボナム=カーター。今回は悪意や不幸の雰囲気を完全に消し去り、英国王室にふさわしい正当な貫禄を示した(少しふっくらしたのも役作りだろう)。

監督のトム・フーパーはこれが2作目ということだが、なかなか手堅い作品作りではないか。全体的にアンダーステイトメント(控え目)で、ラストも安易な国威発揚につなげないところが英国風だ。クリント・イーストウッドの控え目さも好きだが、あちらの方がハリウッド流のくどい表現の反動だと思われるのに対して、こちらの方は筋金入りの英国的表現という感じがする。この作品がアメリカ人に評価されるとすれば、それはイギリスの奥深さへの憧憬ゆえだろう*1

個人的に一番英国らしさを感じたのは、クライマックスのスピーチの場面でのBGM。ここでなんとベートーヴェン(交響曲第7番第2楽章)。ドイツと戦うことになったことを国民に語る場面で、他ならぬドイツの音楽家の作品を流すという。第2楽章(アレグレット)は、スローテンポで比較的単調な音階を繰り返すのだが、このジョージ6世のゆるぎない決意を示すにはふさわしい。ここでエルガーの「威風堂々」とかを流してしまっては、すべて台無し。それではナチスと変わらない。

映画には描かれていないが、開戦後、国王夫妻は、ドイツの空襲で命を落としかけたらしい。側近が疎開するようにアドバイスすると「国民が皆危険に晒されているのに、君主である自分達が逃げ出す訳にはいかない」として、拳銃を手にバッキンガム宮殿に留まり続けたと。そういう美談まで映画で描き切らないところが、ますます英国流の奥ゆかしさを感じさせてよい。

*1:後日追記。本作品は2011年のアカデミー賞作品賞を受賞した