日本人は未来に、オタクはシミュラークルに生きている〜『動物化するポストモダン』

昨夜の「朝まで生テレビ」の「激論!“若者不幸社会”」で、東浩紀がキレて途中退場したらしい。相変わらずだ(良い意味で)。あの堀紘一の「じゃ帰れよ」という侮辱。そして、それをとがめもしない田原総一郎。最低だ。帰ってよし! それはともかく、その東の名著『動物化するポストモダン〜オタクから見た日本社会』。

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

ここでの東の論旨は以下の通り。

70年代は「大きな物語」が信じられていたが、80年代の冷戦終了によりそれが崩壊。「小さな物語」が分立するデータベース・モデルの時代になった。

一つの典型が、データベースから「萌え要素」を組み合わせたキャラクターによって構成される物語を消費する「オタク」で、その姿は動物的な欲望によりポストモダンに順応している姿のように思われる。充足されているという観点からは、それはそれで幸福な状況だ、と。

いやあ、その通り。鮮やかな分析。アニメもゲームもラノベも、萌え要素の順列組み合わせ的な「キャラクター」と、舞台設定の順列組み合わせ的な「世界観」の、これまた組み合わせで出来ている。そして、オタクはその組み合わせを楽しんでいる。

・「獣耳×戦闘機×銃×戦闘少女×百合」というキャラクターに「20世紀初×謎の敵×連合軍」という世界観

・「巨乳×コスチューム×羽根×戦闘少女」というキャラクターに「バトルロイヤル×ハーレム」という世界観

僕らが『ストライクウィッチーズ』や『セキレイ』という作品をこういう風にメタ的な観点で楽しんでいるのは事実。かつてボードリヤールが提唱した「シミュラークル」をオタクは享受している、と言えば確かにそうだよなあ。

ところで、これでオタクは幸福だ、だから日本はオーケー、かというとそうではない。いくらポストモダンの社会で動物化すればよいと言っても、それが許されない経済構造があれば、前提が崩れてしまう。秋葉原事件の大量殺人事件を引き合いに出されて、朝まで生TVで「若者は不幸だ」と言われてしまうとなおさらだ。

ということで、そのあたりの問題意識は続編『ゲーム的リアリズムの誕生動物化するポストモダン2』で言及されている模様。次はそれだ。