観てから読んだ〜『西の魔女が死んだ』

いや別にカドカワ流のメディアミックスとは関係ないのだけれど。映画を観ていたく感動したので、小説を読んでみた。

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

結論から言えば、この小説は素晴らしい。そして、映画は本当に忠実にこの小説世界を再現したと思う。もちろんディテールでカットしたエピソードもあるし、会話で洗練されたところもある。また、原作にはない登場人物(郵便屋さん)も追加された。でも、それらはあくまで小説の世界のエッセンスを引き出すためのものだ。

この作品で最も感動するのは、最後のクライマックスのところなのだけれど、その感動は映像の方が大きかったかなと思う。このあたりは活字の限界。活字にすると妙に整形されてしまう光景というのが確かにある。逆に言うと、長崎俊一監督が原作を元にして最高の映像を用意したというべきかもしれない。

そうそう、原作と映画の違いといえばどうしても書いておきたいことがある。それは、まいの母親の車が、原作ではグリーンのミニなのだが、映画では真っ赤なカローラフィルダーになっていたこと。

当然のことながら、アイテムとしてはグリーンのミニの方がこの作品世界にはしっくりと来る。だが、乗り手であるまいの母親は、この「魔女」のもとを離れて、ダンナとも別居して、バリバリに働いているキャリアウーマンなのだ。いくつになっても田舎で英国流の生き方を貫くおばあちゃんとは、価値観の根底で相容れていない。そういう意味では、自己主張の強い赤い車を乗り回す方がまいの母親らしい。緑に囲まれたおばあちゃんの庭に止まる真っ赤なワゴン車は、このサンクチュアリではどうやっても浮いた存在であり、異分子であり、ともすると余所者になってしまうのだ。だからこそ隣人のゲンジさんは、この車が止まっているのを見つけて、訝しげに車内を覗き込んでいたのだろう。

そして、映画ではまいの父親の車は、トヨタのマークXの白だった。これもチョイスとしては絶妙。悪い人じゃないんだけれども、自己主張が乏しく、どこか優柔不断で、無難さを求めるまいの父親にぴったり。『西の魔女が死んだ』の映画は、小道具としての車選びに成功していると小説を読んで気付くというのもどうなんだろう*1

*1:もちろんトヨタのスポンサーあってこそであり、その制約がなければ、まいの母親の車はBMW1シリーズあたりでもよかった