残酷なゲーオタのテーゼ〜『Fate/hollow ataraxia』

Fate/stay night』をプレイした後、あちこちでFate論を狩猟したが「Fateは文学」というフレーズをよく見かけた。大半は信者に扮したアンチが拡散した「煽り」のようだったが、Fateの熱心な信奉者がいるというのもまた事実だった。

僕自身は『Fate/stay night』はよくできたゲームだとは感じたものの、けっして「文学」とは思えなかった。あくまでいろいろな素材をうまく構成したとは評価したが。

しかし『Fate/hollow ataraxia』をクリアして考えを改めた。これはよくできたゲームではない。文学だ。エヴァがアニメを超えたように、Fateはゲームを超えた。いいかえればメタのレベルでゲームを相対化した。そして、エヴァが『THE END OF EVANGELION』でアニオタに冷水をぶっかけたように、Fateも『hollow ataraxia』でゲーオタにこのように告げる。「ゲームの主人公というのは虚無な存在だ。自己を仮借して繰り返し楽しむのは自由だが、その外にこそ現実世界があるのだ」と。

もちろん、奈須きのこ庵野秀明よりも巧妙かつスマートなやり方でこのテーゼを僕らに差し出す。プレイしているTYPE-MOONファンの大部分に反感をもたれないようなフィクショナルな方法で。またメタな次元で。

本来、ゲームは現実逃避である。それが18禁ギャルゲのFateのようなものであればなおさらのことだ。だが『Fate/hollow ataraxia』をプレイすると、「僕って何だろう」あるいは「ゲームに逃避してもいいのだろうか」などという根源的なところを問われているように感じる。これはまさに文学の役割だ。そう、だから、Fateは文学。