『パンズ・ラビリンス』〜生は暗く死もまた暗い

パンズ・ラビリンス(公式サイト:映画 「パンズ・ラビリンス」 のファンサイト)を観た。ストーリー詳細は以下の通り。その後に感想を書く(ネタバレ注意)。

スペイン内戦で父親を亡くした少女オフェリアは、妊娠中の母親と共に母親の再婚相手であるヴィダル大尉に引き取られて森の中にある軍の砦に住む事になる。ヴィダルは独裁政権軍でレジスタンス掃討を指揮する冷酷で残忍な男だ。彼はもうすぐ生まれる自分の息子だけを欲しがり、オフェリアの事は疎ましく思っていた。

この悲しい現実から逃れるかのように、オフェリアは妖精やおとぎ話の世界に引き込まれていくのだった。ある夜のこと、彼女の前に「妖精」が現れ、森の迷宮に導いていった。するとそこには迷宮の番人パンが待っていた。そして彼女を一目見るなり「あなたこそは地底の王国の姫君だ」と言うのであった。

むかしむかし、地底の世界に病気も苦しみもない王国がありました。その国には美しい王女様がおりました。王女様はそよ風と日の光、そして青い空をいつも夢見ていました。ある日、王女様はお城をこっそり抜け出して人間の世界へ行きました。ところが明るい太陽の光を浴びたとたん、彼女は自分が誰なのか、どこから来たのかも忘れてしまったのです。地底の王国の王女様はその時から寒さや痛みや苦しみを感じるようになり…、とうとう彼女は死んでしまいました。姫を亡くした王様は悲しみましたが、いつか王女の魂が戻ってくる事を知っていました。そしてその日が来る事をいつまでも、いつまでも待っているのでした。
パンはこの迷宮が地底の王国の入り口である事、そして姫君である事を確かめるためには3つの試練を果たさなければいけない事を伝える。

こうしてオフェリアはパンに与えられた3つの試練に挑むのだった。…

これは「ダークファンタジー」というジャンルにくくられるものではない。スペイン内戦下の「矛盾」の被害を蒙っている無垢な人々の悲劇を描いた作品だ。ここでの「ファンタジー」の役割はあくまで「現実逃避」そして「救済」である。

その意味では「ファンタジー」の役割は伝統的に宗教が担ってきたものと同じだ。「いまここ」の悲惨さに人々が耐えるため、あるいはそこで命を失うときに、「ここではないどこか」を提示するという役割だ。この映画におけるファンタジーも同様である。主人公のオフェリアがあらゆる試練に耐え続けるのは、まさにそのファンタジーのためと言っても過言ではない。

そして、ラストで彼女は夢の王国にたどり着く。それこそが彼女の生の意味であり、そして死の意味である。本来、宗教が与えてきたこの役割をファンタジーが担っているのは、宗教(舞台であるスペインにおいてはカトリック)が権力と結びつきやすく、それゆえに現実の矛盾を生み出す側になっているためだろう。

生は暗く、死もまた暗い。だが、僕らはそこに「物語」を求める。そうでなければ、どちらの暗さにも耐えることができないから。それがオフェリアの場合には、パン(牧神)の与える物語だったというだけだ。

この映画は誰にでも薦められる性質のものではない。そして、観ることを決意した人も、鑑賞後は相当のインパクトで沈む覚悟をするべきだろう。

だが、この作品が傑作であることは間違いない。スペインらしい落ち着いた色調や、しっとりとした音楽が好みなら必見だ。メキシコでは、アカデミー賞で9部門を受賞しているが、主役の少女・オフェリアを演じたイバナ・バケロは主演女優賞を獲得。確かに彼女は逸材だ。『レオン』のナタリー・ポートマンを彷彿とさせる。

いずれにしても、この作品は単に「暗い」という理由で敬遠されるべきではない。僕らは生きるにしても死ぬにしても、暗さとは無縁でいることはできないのだから。