角田光代のコラムがおかしい件

今朝の日経新聞の文化欄に掲載された角田光代のクリスマスに関するコラム「私たちの経済イベント」を読む。酷い。支離滅裂とした悪文の典型。いろんなことを言おうとしているようで、結局何も言えていない。

角田はこのコラムを、最近知り合った30歳の男性のクリスマスのプランの実例から始める。彼は、今年のクリスマスを20代の恋人と「家で鍋を」して過ごす計画なのだという。角田はここで驚く。何に驚いたかって? そんな過ごし方をわざわざ計画することに驚いた自分に驚いたらしい。個人的にはこの時点で角田の文章は技巧に走り過ぎだと思う。あえて角田の表現を真似るなら「読者の意表を突こうとして論理的な整合性を失う筆者の稚拙な表現に驚く」というべきか。

この後も角田の非論理的展開がダラダラと続く。現在の質素なクリスマスの過ごし方をバブル期と対比していながら、自分はバブル世代の例外であるかのように言ってみたり。あるいは、アイルランドと日本を対照的に描きながら、でもキリスト教と関係なくクリスマスで盛り上がる日本は否定しないと言ってみたり。それならば、現在の日本のクリスマスを肯定しているかと思うと、さにあらず。最後まで角田はひねくれ者だ。ここまでさまざまな実例を引きながら、最後にこのとりとめのないコラムを次のように締める。

…ごく個人的な価値基準において行われるイベントが、ひとつでもあれば、今よりずいぶんと私たちはゆたかになるのではないかと思うのである。

「〜があれば、今より…になるのではないか」というのは英文法でいうところの仮定法だ。つまり、実際には「〜」が存在しないから、私たちは…ではないと。しかし、角田が冒頭に引いた男女の例こそ、個人的な価値基準においてイベントを行っている典型ではないか。自分で最初に例を引きながら、最後にその欠如を指摘して、私たちはいまだにゆたかではないと嘆いてみる。完全な論理破綻だ。

私としては、ここまで読まされた以上、角田に問いたい。それは角田が「ひとつでもあれば」とまで切実に求める「個人的な価値基準において行われるイベント」とは、一体どういうものなのか。作家を自称するのであれば、出来損ないの社説のような結論ではなく、はっきりと自分のイメージを語るべきだろう。