豚の群れに入りこむ悪霊とは何か

潮文庫になっているドストエフスキー『悪霊』の裏表紙には、次のような本書の紹介文が記されている。

…本書は、無神論的革命思想を悪霊に見たて、それに憑かれた人々とその破滅を、実在の事件をもとに描いたものである。

この作品を読了してまず気になったのは、そもそもこの解説は正しいのだろうか、ということだ。ドストエフスキー自身がある時期に革命運動に参加していたのは事実であるし、そのせいで死刑宣告を受けたことがこの作品の素地になっていることは分かる。

しかし、無神論的革命思想を悪霊に見立てているのは、あくまで劇中の登場人物の一人であり、その人物がドストエフスキーの主張を代弁しているとは思えない。ドストエフスキーは、そんな単純な反動主義者ではなかっただろう。それに、無神論をそんなに簡単に否定できるのであれば、そもそも『悪霊』や『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』のような、神のあるやなしやを問うような作品群を生み出すことはなかったはずだ。事態はより複雑だし、彼はそれを内面の問題として悩みに悩んで作品にした。そういう意味では、「不条理」が生み出した文学だと言える。

では、「悪霊」というのは結局のところ何なのか。まず、原典である「ルカによる福音書」を見てみる。

ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取り付かれた人の救われた次第を人々に知らせた。
ルカによる福音書 8.32−36)

豚の群れに悪霊が入り込み、豚を死なせてしまう。これは革命前夜のロシアにおいては、あるいは「無神論的革命思想」だったかもしれない。しかし、つねに革命思想が悪霊だと断じているわけではない。たとえば、宗教の対立が先鋭化している現代社会においては「キリスト教的価値観」が悪霊になることもありえるし、「グローバリズム」や「自由」、「民主主義」という価値観ですら、ある状況では、破滅をもたらすこともあるかもしれない。

ドストエフスキーがいいたかったのは、ある種の思想・信条・イデオロギーを、無謬のものとして信じることが「悪霊」になりうるということではないだろうか。「無神論的革命思想」というのは、一つの例示に過ぎない。

そういう意味で、身近な例を挙げるならば、90年代の日本にとっては、オウム真理教というのがまさに「悪霊」の例示として相応しい存在であったといえる。

オウムは現在では影響力を失っている。が、常に「悪霊」は存在しているはずだ。だから、現在の「悪霊」は何なのか、という想像力を失わないことが大事だ。豚の群れに入り込んで、破滅をもたらそうとしているのは何か。それは誰なのか。これらの問いは、現在でも考察に値する、いや、現在だからこそ考察に値する問題なのではないか。

悪霊 (上巻) (新潮文庫)

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悪霊 (下巻) (新潮文庫)

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