『女王ロアーナ、神秘の炎』(ウンベルト・エーコ)

旅に出るときは長い小説を読むのが癖になっている。

日常を脱出しているときにこそ、迷い込みたい世界があるというか。

ということで、日本を離れる前に買い込んだ小説の一つがウンベルト・エーコの『女王ロアーナ、神秘の炎』。

女王ロアーナ,神秘の炎(上)

女王ロアーナ,神秘の炎(上)

女王ロアーナ,神秘の炎(下)

女王ロアーナ,神秘の炎(下)

フーコーの振り子』『薔薇の名前』で知られるベストセラー作家だが、「哲学者」という方が実態に近い。

本作『女王ロアーナ、神秘の炎』は、フーコー5作目の小説であるが、2016年に没した際には邦訳が刊行されていなかった。

それがようやく2018年になって出版されたということで、早速読んでみた。

内容は、記憶を失くして病院で目覚めた主人公ヤンボが、自らの出生地を訪れて、そこで目にした書籍・新聞・レコードから記憶の断片を蘇らせていくというもの。

ヤンボは、明らかにエーコ自身と同世代であり、内容の多くはフィクションでありながらも、恐らくは自伝的要素が多く含まれていると考えられる。

ふとしたところから過去の記憶が鮮明に蘇るというプロットは、プルーストの『失われた時を求めて』を明示的にオマージュしている(マドレーヌを紅茶に浸すような象徴的なシーンが描かれるわけではない)。

記憶の断片は、テキスト、図版などが入り混じったものとなっていて、特にカラーでの図版のビジュアルは、この作品を特徴付けるものの一つになっている。

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引用されているものの中には知識として知っているものもあるが、平均的な日本人には馴染みのないものも多く、イタリアの文学や映画や風俗などを理解していないと完全にはこの作品を楽しめない、と言っても過言ではないと思う。


作品後半では、主人公は再び昏睡状態に入る。

目が覚めた後は、ムッソリーニによるファシズム運動、『シラノ・ド・ ベルジュラック』のエッセンス、宗教の教義への懐疑などを通じて、主人公ヤンボの生き様が少しずつ明らかになっていく。


キリスト教に関する以下の対話は、有名なドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を思わせる。

「ぼくの考えは単純さ。いままで誰もそんなふうに考えなかっただけだ。<神>は邪悪だということさ。なぜ神父は<神>が善良だと言うのか? <神>がぼくらを創ったからだ。ところがこれぞまさに<神>が邪悪である証だ。<神>は僕らが頭が痛いように邪悪なのではない。<神>は<悪>なんだ。<神>が永遠であることからすれば、おそらく大昔は邪悪じゃなかったんだろう。<神>は、子どもが夏に退屈して時間つぶしに蝿の羽をむしりとりはじめるように邪悪になった。<神>が邪悪だと考えれば、<悪>についての問題がすべてこの上なく明確になる。」
(『女王ロアーナ、神秘の炎』第3部「帰還」16.風が鳴る)

もちろん、この登場人物の言葉のどこまでがエーコ自身の思想や価値観を反映したものなのかは分からない。


だが、主人公が自身の過去を掘り起こして記憶を手繰る中で、自分という存在の核にアプローチしていく中から生まれてくる言葉には、それなりの重みがあると言えるだろう。


物語のエンディングは、カタルシスが得られるものというよりは、結局のところ「混沌」の中に戻っていくように読める。

すなわち、覚醒した主人公は記憶を失っているが、いろいろな外部からの情報によって再構築し、昏睡を経て、再び混沌の中へと戻っていく。

構造としては夢野久作の『ドグラ・マグラ』と似ていて、結局、自分が何者であるのかが分かりそうになった瞬間に、「ブウウウン」という音がして眩暈がする、というのと本質的には変わることはない。



頭脳明晰なエーコが、晩年に近い時期にこのような自伝的で謎めいた作品を残した意味は、僕自身がそういう年齢に近付いた時に、少しはわかるのかもしれないと思った。

たとえば、このブログが自分の過去のログを記録していることを認識できなくような日が来たときに。