すべての法則や理論は、もはや疑い得ないと思われるときでさえ、暫定的・推測的・仮説的でしかない。
(カール・ポパー『推測と反駁-科学的知識の発展-』)
「勝手に持ち上げて落す」のはメディアのお家芸であるとしても、佐村河内某とセットにして「堕ちた偶像」扱いするような取り上げ方にはややうんざりする。
もともとは、ある研究に関する論文がNarureに掲載されたいうだけの話だ。それが、「理系女子」だの「割烹着」だの「ムーミン」だの様々な意匠をまとったがゆえに本質が見えにくくなってしまった。いや、むしろ、メディアの方がそのような「メディア対策」に釣られたのだろう。その反動がいまのバッシングを呼んでいるように見える。
事の本質は科学であるという点に立ち返ると、論点は一つしかない。「STAP細胞は再現可能か」ということだ。
「写真の使い回し」だの「コピペ」だの当該論文が孕んでいる欠陥は、科学的な真実の前にはノイズでしかない。
カール・ポパーを引用するまでもなく、科学の本質は検証可能性にある。ある方法で作れたものが同じように作れるか。この一点にかかっている。
『ハリー・ポッターと謎のプリンス』では、魔法薬学の講義でホラス・スラグホーンが課題に出した「生ける屍の水薬」を作ろうとしてほぼ全員が失敗するエピソードが出てくる。
実は、教科書のレシピが間違っているので、優等生のハーマイオニーを含めて誰も正しく作れないのだが、そんな中、ただハリー・ポッターだけが古びた教科書に書かれた「秘密のレシピ」に倣って調合の具合を変えて、「生ける屍の水薬」を作り出すことに成功する。(この書き込みをした人物は、シリーズで重要な役を演じたキャラクターであるのだが、ネタバレ回避のためにここでは名前は伏せる)。
小保方論文は、ハリー・ポッターに出てくる「間違った教科書」かもしれない。それならばそれで、「秘密のレシピ」を含めて改めて書き直しをすればいい。もちろん「お作法」に則ってきちんと記述されることはアカデミックな世界では大事なことだが、本質は「STAP細胞」が作れるものなのかどうか。それ以外は科学的にはどうでもいい話だろう。
ハリーは「生ける屍の水薬」を調合したことで、指導教授のスラグホーンからご褒美に「フェリックス・フェリシス」を貰った。幸運を呼ぶ薬である。いま、ご褒美のことを考えるにはまだ早い。