ロラン・バルト『明るい部屋―写真についての覚書』

ロラン・バルトである。写真論である。いずれも興味を惹くにもかかわらず、今まで読んでこなかったのは、物凄く影響されそうな予感がしたからだ。だが、実際に読んでみると、そういう予感が杞憂に過ぎないことが分かった。

結論から言えば、これは写真論のように見せてはいるものの、亡くなった母にまつわるバルトのエッセイに近い。しかも母親への愛を隠そうともしないストレートなエッセイだ。

いくつか特に印象に残ったところを引用する。

母のあの写真が黄ばみ、色あせ、うすれていって、いつの日か私の手でごみ箱に捨てられるとき、少なくとも私の死後に捨てられるとき、いったい何が失われてゆくのであろうか? 失われてゆくのはただ単に<生命>だけではない。ときにはまた、何とよんだらよいのか、愛が失われてゆくのである。(P.117)

一般に、アマチュアは、芸術家として未熟な状態にある者、と定義される。それは、ある職業にとって必要な腕前に達することができない者―または達することを望まない者である。しかし「写真」の実践の場においては、逆にアマチュアこそ専門家の極致である。というのも、アマチュアのほうが「写真」のノエマの近くにいるからである。(P.122)

「写真」のノエマは単純であり、平凡である。深遠なところは少しもない。<それはかつてあった>ということだけである。(P.139)

狂気をとるか分別か? 「写真」はそのいずれをも選ぶことができる。「写真」のレアリスムが、美的ないし経験的な習慣によって弱められ、相対的なレアリスムにとどまるとき、「写真」は分別のあるものとなる。そのレアリスムが、絶対的な、もしこう言ってよければ、始源的なレアリスムとなって、愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義そのものを思い起こさせるなら、「写真」は狂気となる(p.144)

母親への愛を軸にしながら論じてはいるが、いずれも面白い観点だと思う。バルトは、どの写真に分別があり、どの写真に狂気があるかを、本書で具体的に示しているわけではない。だが、僕らが心を揺さぶられる写真を見るとき、確かにそこには狂気があるというように感じる。この点で非常に共感を覚えた。

本書は写真を撮るときには全く役に立たない。しかしながら、自分が写真を撮るというのはどういうことか、その写真を他の人が観賞するというのはどういうことか、そういったことを考える際に興味深い視座を提供してくれる。

そして、最後には自分自身への問いが残る。お前は分別を取るのか、狂気を取るのか、と。

明るい部屋―写真についての覚書

明るい部屋―写真についての覚書