これからのアウラの話をしよう―ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』

あのときの興奮を思い出したくなって、あの場所に足を運ぶ。だが、そこには期待するものはない。あのとき、世界は僕を特別な空気で包んでいたのに!

その特別な空気を、ベンヤミンアウラと呼んだ。英語ならオーラ。彼自身の定義はこうだ。

いったいアウラとは何か? 時間と空間とが独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。
(『複製技術時代の芸術作品』ベンヤミン

一回限り、という言葉は残酷に聞えるかもしれない。シンプルに言えば、本人にはアウラがあるが、ポスターはアウラを喪失している。スタジオで奏でられる音楽にはアウラがあるが、CDはアウラを喪失している。スタジアムで演じられるライブにはアウラがあるが、スクリーンで上映されるフィルムはアウラを喪失している。

ベンヤミン研究者の多木浩二は、アウラについてこう解説する。

観客と役者は共犯関係にある。毎日、役者の演技は変化する。そのひとつの原因はあきらかに観客の反応にある。その呼吸があえばうまくいく。それに役者は、いま、そこにいるーこれは定義上、アウラの世界なのだ。
多木浩二ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読)

確かにそうだ。CDから流れる音楽とは違って、ライブでは、観衆の反応次第でパフォーマンスは良くも悪くもなりうる。だからこそ、僕らは現場に一生懸命足を運ぶのだろう。毎日、パフォーマーの演技は変化する。観客の反応が良ければ、進化もするし、ときには覚醒もする。予想外の反応に、もしかしたら涙を流すこともあるかもしれない。

では、ライブのDVDや、Youtubeで鑑賞する作品は、アウラを喪失していのか。定義としてはその通り。では、そういう複製技術の芸術作品は、アウラをまとったオリジナルに劣るのか。いや、そうではないだろう。

まずオリジナルのアウラを目撃した人にとっては、現場の記録やコピーは、良質な追体験を与えてくれる。それだけではない。時間と空間を超えて、その場にいなかった大勢の人にアウラを疑似体験させることができる。複製には複製の意味があるのだ。

では、複製技術は、常に対象物からアウラを喪失させるのか。ベンヤミンよりも100年以上後の世界にいる僕らは、必ずしもそうではないことを知っている。たとえばニコニコ動画。動画自体はアウラを喪失しているが、ある人が動画を体験したときに残すコメントには、その瞬間、アウラが宿っている。

こうして考えると、ニコ動は、上に自分のコメントを重ねることで、対象の意味合いを変えることができる。ニコ動に残すコメント次第で、そのコンテンツの評価を上げることも下げることもできる。観客がコールを送る行為に似ている。ニコ動のコメントはまさに過去から現在へと連なるアウラの痕跡なのだ。

複製技術により、アウラの痕跡がどんどん蓄積していることをベンヤミンは想像しなかっただろう。だが、僕らは、ニコ動のコメントで「自分が何かに参加している」という手応えを得ることを知っている。

DVDやYoutubeもいいけれど、ニコ動でコメントをしつつ盛り上がるという手法は有効そうだ。そこはアウラがある。これからのアウラは、きっとネットの上にも宿るのだろう。

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)