藤野可織『爪と目』―二人称が成功しているとは思えない

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これが二人称文体だ。

第149回芥川賞受賞作の藤野可織の『爪と目』は二人称で書かれた作品である。「あなた」とは誰のことなのか、そしてその人を「あなた」と呼ぶ「語り手」は誰なのか。それはこの作品の特徴の核心をなすと言っていい。

この作品において「あなたは誰か」「語り手は誰か」というのは、ある種のミステリの叙述トリックにも似た核心なので、ここでのネタバレは避けておく。だが、その核心が明らかになった後、冷静に読み進めると辻褄の合わないこと甚だしい展開になってくる。

一人称であれば、自分のことは自分が一番良く知っている
三人称であれば、神の視点からは全てが客観的な事実になる。
では、二人称の場合はどうなのだろうか。

根本的に「語り手はどのようにしてその事実を知ったのか」という問題が付きまとう。特に、この作品の場合のように特殊な語り手であればなおさらだ。こんなときには、読み手は常に一つの可能性を胸に抱きながら話を読み続けることになる。

それは「この語り手は信頼できるのか?」ということ。積極的に嘘をついている可能性。もう少し誠実なケースでは、不都合な情報を完全には語っていない可能性。または、何らかの原因で、認識が誤っている可能性。

俗に言う「信頼できない語り手」である可能性を疑いながら読み進めるしかない。そのくらい辻褄が合わない。だが、最後まで読むと、そうした謎解き的な欲求は全く満たされることなく、暴力的な場面で唐突に終わる。過去の芥川賞受賞作で何度か見られたような「衝動的な暴力の発露」と括ってもよいような場面で。個人的にはその結末自体はどうにも陳腐であるかのように感じられる。特にタイトルの意味を考えながら読んでいる場合には、あからさまに予想できてしまうだろう。

では、なぜこの作品が選ばれたのか。島田雅彦の講評はこうだ。

いきなり、あなたへの呼びかけから始まる二人称小説で、過去にこの不安定な二人称を使った小説がないわけではないですが、成功例が実は少ない。その中で、『爪と目』は非常に二人称が功を奏しているという意見があった。

「…という意見があった」などと巧妙に客観的な事実とするような印象操作が図られているが、これは他ならぬ島田雅彦自身の意見である。芥川賞講評のサイトには各選考委員の意見が記されているが、島田は「成功例の少ない二人称小説としては、例外的にうまくいっている。」と評価している。そのままだ。

島田自身が、これまでにどの程度の二人称小説を読んだのか、そしてどの二人称小説を評価しているのか、母集団とメルクマールは反論を封じるために巧妙にぼかされている。倉橋由美子くらいは読んだのかもしれない。だが、ジェイ・マキナニー『ブライトライツ、ビッグシティ』や、テッド・チャン『あなたの人生の物語』と比べて、『爪と目』の二人称が成功しているとは思えない。いや、むしろ冒頭に書いた理由で、羊頭狗肉に終わっているのではないかとさえ思う。

きみはそんな男ではない。
夜明けのこんな時間に、こんな場所にいるような男ではない。しかし、いまきみのいるのは、間違いなくこんな場所なのだ。この風景には見覚えがない、ときみは言うことができない。
ジェイ・マキナニー『ブライトライツ、ビッグシティ』)

この有名な文体を使って書けば、『爪と目』の読後感はこんな感じになるだろう。

きみはそんな男ではない。
夏休みも終わったこの忙しい時期に、こんな本を読んでいるような男ではない。しかし、いまきみの読んでいるのは、間違いなくこんな芥川賞受賞作なのだ。この文章には見覚えがない、ときみは言うことができない。

やめよう。ポストモダンの香りがする。バブルの香りがする。

しかし、本上まなみの髪型やメイクや服装を真似たような藤野可織の「売り方」を見ると、バブルのときに「処女作執筆中」と売り出した椎名桜子の姿が重なる。

若い女性だから? ビジュアルがいいから? やめろ…僕はただ本が読みたいだけなんだ(岡村靖幸ヴォイスで)

僕はバブルの時代の記憶に何も幸福なものがないのだが、島田雅彦にとってはそうでもないのだろうか、などと作品とは全く関係のないところにまで感想が及んだところでこのエントリーは終わりにしたい。ちなみに、『爪と目』の他の2作品は残念ながらどこにもひっかかるところのないものだった(あくまで個人の感想)。

爪と目

爪と目