フランシス・ベーコン展@東京国立近代美術館

デカルトは『方法序説』でこう書いた。「我思う、ゆえに我在り」と。だが、この存在の拠を専ら精神にのみ求める態度は、後に「精神と身体の二元論」として批判に晒されることになる。

では、逆に身体を存在の拠にすることは可能か。可能であるとするとそれはどのよううなものか。生きている人間の証を身体に求めるとすれば、それは動くことであり、形を変え続けることにあるのではないだろうか。

フランシス・ベーコンの作品で、人間の身体の形が曖昧になっている理由は、もしかしたらそこにあるのかもしれない。止まっている体は死んでいる体と区別がつかない。それは肖像画でも同じである。ゆえに動いている人間を描くには、動いているように描かれるべきである。ちょうど、草創期のカメラで撮影された人間の輪郭が、長時間露光のせいでブレるように。そのブレこそ生きている証である。ベーコンの手法もそれに通じるものがある。

この手法は、ときに見る人を不安にさせる。そこに突きつけられているのは、不確かな自分の存在を鏡に映した自画像のように思えるからだ。だが、考えて見ると、確かな自分などというのは幻想に過ぎない。精神も肉体も絶え間なく動き、揺らぎ、移ろう。明日もまた同じようにある保証などない。それがまさに「生」であり「存在」である。

ベーコンの作品は生理的な嫌悪感を掻き立てるという人もいるが、こういう強い感情を惹起することこそ、人間の証であり、芸術の力ではないかと思う。デヴィッド・リンチ監督が敬愛するのも十分に理解できる。

フランシス・ベーコン展は5月26日まで。

公式サイト:フランシス・ベーコン展 Francis Bacon|東京国立近代美術館