深みがない―『永遠の0 (ゼロ)』 百田 尚樹

『永遠の0 (ゼロ)』でデビューした百田尚樹はかつて放送作家だった。経歴で作家を判断する訳ではないが、構成がいかにもTV番組的であると感じさせる。

かつて零戦のパイロットであり、戦死した宮部久蔵のことを孫たちが調べる。この孫たちがとっくに二十歳を超えているのに、言動が妙に子供っぽい。読者のターゲット年齢を低く設定したのだろうか、というくらい。

また、かつての兵士達に話を聞きに行くのだが、どの老人も自分のことを語るよりも戦局全体を語るのに熱心で、語り口も妙に説明的だ。「これは後で知ったのだが…」などという後講釈ばかり。自分の恥ずかしい体験まで、まるで過去の他人事のようにべらべら話す。本当の意味で「人物」が見えないまま、「歴史」だけが語られていく。そもそもある程度歴史を知っている人が読むと、どこかで出てきた話がそのまま載っているように読めるのではないだろうか。

さらに言えば、インタビューをしていく順番が、太平洋戦争の戦局と完全に重なっているのも、出来過ぎであると感じさせ、かえって興ざめ。これはフィクションの名を借りた、歴史書のコピーのようにしか見えない。

戦争はもう遠くなってしまったが、ここで描かれる宮部久蔵の価値観や生き様は、現在にも十分通じるもののように見える。いや、これは作者が現在の歴史観に基づいて、太平洋戦争を再構成したものなのだろう。いわく、前線の戦士は一生懸命戦った。特攻した人もいたが、決して狂信的ではなかった。ダメだったのは軍の上層部だった。などなど。

著者の情熱や工夫は理解できる。だが、もしこれをある程度広いターゲットに向けてのメッセージだというのであれば、もっと短くする方が届くのではないか。

いずれにしても、文学性はあまりなく、ある種の娯楽小説あるいは教養小説として読まれるべきであろう。年内には映画化もされるということで、かつての放送作家だった作者の面目躍如ではないか。恐らくヒットするのだろう。

だが、深みのない「物語」は、どうにも僕の胸の奥には届かない。徹底的な合理主義者にしか見えない宮部久蔵が、最後の最後に「らしくない」行動をしたのが納得できないということもある。もちろん、その結果が、この作品の大前提になっているのだが、どうにも「お涙頂戴」にしか読めなかった。その点でも興ざめだった。

永遠の0 (講談社文庫)

永遠の0 (講談社文庫)