『シュタインズゲート』ーあるいは非決定論の彼方へ

この作品を強力に推してくれたMa20XXさんと、考察する文章をしたためることを勧めてくれたのぎさかみくるさんの二人にこのエントリを捧げます。そんなものはいらない(苦笑)と言われそうですが、まあ捧げます。以下ネタバレ。

シュタインズゲートはギャルゲーの形を取っている。中二病の主人公とオタクの相棒の周りには、幼なじみのまゆり、天才科学者の紅莉栖、萌えメイドのフェイリス、タイムトラベラーの鈴羽、「男の娘」のルカの5人のキャラクターが登場し、ゲーム中の様々な選択肢次第で、それぞれのキャラクターと結びついたエンディングを迎えることになる。

だが、このゲームはギャルゲーでありながら、その本質はメタ・ギャルゲーであるとも言える。プレーヤーはこのゲームの全体構造を理解し、どの選択肢を選べばどういう結果を迎えるのかを把握し、その上でどの選択肢ががベストであるかを考える。ときに時間を戻しつつ。

これは通常はゲームのプレーヤーの視点であるが、シュタインズゲートにおいては、主人公もプレーヤーと同じように経験した分岐をすべて記憶している。「リーディング・シュタイナー」という能力がそれだ。

主人公はどの選択肢も選ぶことができるが、すべての選択肢を選ぶことはできない。トレードオフ。あちらを立てればこちらが立たず。では、すべての選択肢は並列なのか。俺は○○派だから○○ENDを選ぶ、いや××派だから××ENDを選ぶ、というようになるのか。

いや、そうではない。まず、主人公は鈴羽ENDで鈴羽と一緒に1975年に遡ることができる。そのルートでは、鈴羽が命を賭けて修正しようとした将来のディストピア化を回避することはできるかもしれない。だが、まゆりの命を守ることは保証されない。

次に、フェイリスEND。このルートでは、彼女が歴史を改変して「生き返らせた」父親を、そのままに生存させることで、二人で幸福な時間を過ごすことができるだろう。まゆりの生死は不明。

そして、ルカEND。「男の娘」であるルカが女性になった世界で、彼女が女性のままでいられることを選択する。ルカの主人公に対する淡い恋心を無にしないという決断ではあるが、その裏返しに、まゆりが死を迎えることは避けられない。

この3つのエンディングを見ることで、主人公は気付く。プレーヤーは気付く。鈴羽を取るか、まゆりを取るかではない。鈴羽の正義感とまゆりの生命を天秤にかけたら、どちらが重いかなどというのは自明である。同じように、フェイリスの家族愛、ルカの性同一性は、まゆりの死と引き替えにするほどの価値はない。結論はこうだ。「まゆりを守るためには、他のキャラクターの望みをかなえようとしてはならない」と。八方美人にはなってはならないと。

この3つの選択肢をいずれも選ばないことで、主人公はようやくまゆりENDを迎える。幼なじみであり、主人公を信じきっている、罪のない彼女を救うことができる。これは一つの結論だ。「本当に大切な人を守るためには、他のキャラクターに脇目もふらずに一途にならなければならない」と。ここまでは他のギャルゲーでも見られる構造だ。

だが、まゆりENDに向かう過程で、主人公はもう一つの残酷な事実に気付く。まゆりの命を守ることは、他ならぬ紅莉栖の命を見捨てることだということに。天才科学者でありながら、@ちゃんねらーでもあり、タイムマシンの開発や解明にあたっては、誰よりも主人公の唯一無二のパートナーであった紅莉栖。まゆりの命と紅莉栖の命の両方を救うことはできないのだ。

では、一体どちらを助けるべきなのか。そんなことは決められない。主人公は嘆く。「俺は神ではない」と。紅莉栖は言う。私は別の世界で生きるのだから、気にするなと。その瞬間、ゲームにおいて神であるはずのプレーヤーも無力感を味わうことになる。

となると、4つめのまゆりENDを終えて、次の紅莉栖ENDを捜し求めるのが人の性分だ。パッケージヒロインの魅力は伊達じゃない。だが、まゆりを守ることを最優先だと決めて苦渋の決断を重ねたこの世界で、さらに紅莉栖を守るなどという虫のいいことが可能なのか。因果関係という決定論に支配されたこの世界で、主人公の能力と意思はどこまで有効なのか。主人公は試みる。紅莉栖を亡きものにしようとする悪人から彼女を守ろうと。命をかけて。だが、どうやっても彼女を守ることはできない。自分が生き残り、彼女が死ぬことは避けようのない運命なのだ。これが紅莉栖ENDだ。

そして、最後にこのゲームの真骨頂とも言うべき6つ目のEND、いわゆる「TRUE END」へと突入する。このルートへの分岐はわかりにくいが、入ればすぐにそれとわかる。紅莉栖のツンデレ度がアップしているからだ。

このルートは示唆に富んでいるが、それ以前に驚きに満ちている。紅莉栖を守れずに終了するエンドロールの途中でロールが逆転し、新しい未来から、別の鈴羽が高性能のタイムマシンでやってくるのだ。過去に遡れるだけではなく、未来にも飛べるような。このマシンで主人公はクリスを救うことを試みる。今度も命をかけて。

暴漢のナイフは主人公の急所を突く。その代わりに紅莉栖の生命の安全は守られる。その影響でまゆりが死ぬこともない。悪人は逮捕され、悪事は暴かれ、暗い未来はどうやら回避される。だが、主人公は死ぬかもしれない。主人公なのにー

しかし、考えてみれば、これこそ僕らの生きている世界だ。僕らはギャルゲーの主人公ではない。キャラクターを選び放題のリア充ではないし、守るべき人が明確な決定論に従っているわけでもない。誰かを守るために命をかけたとしても、その戦いが報われるかどうかわからないし、もっといえば、自分が死んでしまうかもしれない。

ギャルゲーにはつねに攻略方法がある。だが、シュタインズゲートが示したのは、この世界には最終的には攻略方法などないということだ。未来はあくまで僕らの行動次第。慢心せず、絶望せず、自分の望みに向かって努力しなくては何も得られない。この点で、シュタインズゲートはメタギャルゲーだと言える。

言い換えれば、TRUE ENDの非決定論にこそ、シュタインズゲートの世界の本質がある。この作品が凡百のゲームより優れている点はここにあると言えるだろう。

さあ行こう。非決定論の彼方へ。僕らも。

(いや、しかし、優れた作品について語るのは難しいですね)