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なぜ本質を見誤るのか〜大学入試カンニング事件報道に思う

これほど単純な事件はない。大学に合格したい予備校生が、試験会場で携帯電話を使って、試験問題を公開サイトに投稿し、不特定多数から答を募った。だが、マスコミは本質を見誤っていた。

まずこの事件では、「複数犯」説が流れた。試験会場内と外部の協力者の少なくても2名のチームプレイが必要だろうと。しかし、外部に協力者がいるとすれば、発覚リスクの高い「公開サイトへの投稿」などという手段を取る可能性は低い。公開サイトに投稿する時点で、協力者などいないと考えるべきだろう。

また、自分のIDでログインするという発覚リスクの高い方法をとったことで「愉快犯」説が流れた。しかし本当の愉快犯なら「これはいま受験している京大の入試問題です」と書いた上で投稿するはずだ。それがネット時代の劇場型愉快犯のあるべき姿だろ。

自身のIDでログインし、携帯電話でアクセスしたのは、単に「必死」であっただけだ。リスクの高い手段を選んだからといって、成功を望んでいないわけではない。「一か八か」という賭けは、必死な受験生こそ冒すリスクだ。

どうでもいい話だが、問題用紙の撮影に、携帯ではなく、メガネやペンに仕込んだカメラを使うという方法も紹介された。昔のお笑い映画の見過ぎではないか。また「女子学生を疑え」というコメンテーターもいた。相手が女性では試験中トイレに行っても十分に監督できないからだという。なんという偏見。

いつものことだが、事件発生後、容疑者が捕まるまで間、報道する内容の乏しいマスコミにできることは、方法を推測したり、犯人をプロファイリングしたり、警察のリークを垂れ流したりするだけだ。日本の場合、それが過剰になるから性質が悪い。

だが、素人探偵ごっこには報道の価値はない。マスコミも、それを受ける私達も、いいかげんこのことに気付くべきだ。