蘇る記憶〜『さよならもいわずに』

上野顕太郎の『さよならもいわずに』を読んだ。

さよならもいわずに (ビームコミックス)

さよならもいわずに (ビームコミックス)

ささやかだけれど、幸せな家庭を築いていた漫画家に、突如訪れた、悲劇。妻の突然の死。 最愛の人との最後の日々を、繊細で果敢に描き尽くす。 ギャグ漫画界の鬼才が挑んだ渾身の新境地、愛と悲しみに満ちた、ドキュメントコミック。

内容は以上の紹介文の通り。究極の私小説だと思う。読者が批評する余地はないのではないだろうか。で、以下は僕の感想、いやきっと単なる駄文。私駄文。

人はいつかは死ぬ。それは必然だ。ということは、死は長期的には全ての人間が迎えるイベントであり、短期的にもある種の確率で発生を予測できることだ。
だが、親しい人を亡くしたとき、僕らはしばしばその死を理不尽だと感じる。「なぜだ」と。あるいは「早すぎる」と。

近親者の死を経験した人であれば、この作品を読んで共感せずにはいられない。しかも、突然の別れを迎えるような経験を持った人であればなおさらだ。美しい記憶がなぜか鮮明に蘇り、未来へと繋がるかもしれなかった分岐点が見えてくる。
だが、その道の先は、実際にはその人の死の時点で断たれている。他の道はない。それが現実。いくら残酷でもそれ以外の分岐の可能性はないのだ。僕らはその人のいない道を歩いていくしかない。これからずっと。そのことを受け入れることができたとき、僕らは歩き始めることができるようになるのだろう。

高校時代の英語の先生が突然亡くなったとき、僕の頭にいろいろな場面がよぎった。実際に経験した場面、自分が夢想した未来、先生が見たであろう光景― そして、先生が教えてくれたウィリアム・ブレイクの詩。

To see a World in a Grain of Sand
And a Heaven in a Wild Flower,
Hold Infinity in the palm of your hand
And Eternity in an hour.

先生、あなたもさよならをいわずに逝ってしまわれましたね。教わった詩にあるような無限とか永遠とか、そういうことはまだ僕には分かりません。でも、一粒の砂に世界を見たり、野に咲く一輪の花に天国を見たりというのが、どういうことを意味するのかは、なんとなく分かるようになった気がします。先生、僕は明日から、ロンドンに行ってきます。ギャラリーでウィリアム・ブレイクの作品を見る時間まではなさそうですけど。