真中には何もない〜鳩山=『いちご100%』

かつて東京を訪れたロラン・バルトはこう言った。

いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である。
ロラン・バルト『表象の帝国』)

野暮を承知であえて書けば、これはもちろん東京の中心にある皇居のことを指していると同時に、象徴天皇制の暗喩にもなっている。

それはさておき、同じことは河下水希の『いちご100%』にも当てはまる。いかにもこの物語は中心(=真中)をもっている。だが、その中心(=真中)は空虚であると。

主人公の真中淳平は、どうという取り柄のない男子高校生。だが、なぜか女の子にモテモテ。真中に対して、東城綾西野つかさ北大路さつき南戸唯の4大ヒロインが彼に思いを寄せる。しかし、真中にはこれといった信念はない。誰か一人に絞ろうという意思も見えない。彼のアイデンティティ(映画製作)にとって良きパートナーを選ぼうというそぶりもない。ひたすら目の前に現れる女の子に目移りしている(ように見える)だけだ。

東城も西野も選ばないでいる真中の優柔不断こそが、厳しいジャンプシステムの中でこの作品を単行本全19巻という人気作品に押し上げたポイントだろう。真中には何もない。誰かを捨てるような信念も決意もない。まさに中心は空虚。桂正和江川達也の主人公のように、女性に対して溢れるばかりの妄想を抱いているということもない。誤解を恐れずに言えば、中心にあるのはただ「いちご柄の下着」の強烈な記憶だけ。

この図式は鳩山内閣と同じだ。東の大国も西の大国も選べない。どちらからも嫌われたくないから。この点、鳩山内閣は間違いなく「100%内閣」。もちろん支持率ではない。鳩山内閣の本質は「いちご100%内閣」という意味での100%。これは果たして友愛なのか。それとも単なる優柔不断なのか。自分のアイデンティティ(地球環境)は、複雑な世界政治の現実の前では空回り気味。それなのに大して意に介する様子もないが、それでいいのか。

空虚な鳩山の物語は、空虚な真中の物語のようには長続きしないだろう。男子高校生が空虚であるのはよくあることだし、世間的にも許容される(ラブコメマンガの場合にはむしろ歓迎されるかもしれない)。だが、一国の首相が空虚であるのは稀なことであるし、世間的には容認されないだろうから。現実の場合には、喜劇とはならず悲劇を招くだけだから。

いちご100% 19 (ジャンプ・コミックス)

いちご100% 19 (ジャンプ・コミックス)

あ、僕は断じて東城派です、眼鏡っ娘の。