愛し愛されて生きるのはなぜ可笑しいか〜『駅から5分(3)』

小沢健二は歌った。

いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて生きるのさ
(『愛し愛されて生きるのさ』小沢健二

僕はそのとき「可笑しいほど」の意味が理解できなかった。彼が彼女を愛する、そして、彼が彼女に愛される。これはきっと幸せなことだろう。そして見方によってはほほえましいことだろう。でも一体どこが「可笑しい」のだろうかと―

先月下旬に出たばかりの『駅から5分』の最新刊を読んだ今、その意味がようやく心底わかった気がする。ある人が別の人を愛する。でも、その別の人はそのまた別の人を愛していたりする。当たり前の真実だが、必ずしも「相思相愛」になるとは限らない。しかし、「相思相愛」にならないからといって、それは不幸なことではない。

人が人を愛すること。それは一途なゆえに美しい。まるで一直線に放たれた矢の軌跡のように。まるで空間の中でまっすぐに伸びるベクトルのように。点Aから点Bへ。点Bから点Cへ。そして今度は点Dから点Cへ…

こんな風に、人間というのものが愛し愛されてそれでも生きていくのは、なんといとおしく、そして可笑しいことだろう。そして、人の営みというものをさらっと描いてしまうところが、くらもちふさこの偉大なところだろう。

駅から5分 3 (クイーンズコミックス)

駅から5分 3 (クイーンズコミックス)

この巻でもいろいろな人物の生き様が描かれ、誰も彼もしっかりと生きていることがよく分かるけれども、個人的には、圓城君のお姉さんの雛(この巻の表紙)の存在感が光っていると思う。