人は誰でも空洞を抱えている〜『空気人形』

『空気人形』(���}�T�a�ēŐV���@�f���w���C�l�`�x ��T�C�g)を観た。これは都会の寓話だ。誰もが心の中に空洞を抱えているという―

(以下多少ネタバレあり)

ラブドール(ダッチワイフ)ののぞみは「私は心を持ってしまった」と繰り返しつぶやく。だが、人間だって「心を持ってしまった」存在だ。あたかも原罪のように。心を持つことで、痛みや哀しみを味わうことになったが、それを望んでいたとは思えない。自ら望んで心を持ったわけではないだろう。

人は皆孤独だ。それは心を持った「空気人形」と同じ。そして「空気人形」が存在する前から孤独であるし、「空気人形」が消えてからも孤独だ。当たり前の事実。誰もが知っていて受け入れなくてはならない真実。

だからこそ、その点を強調するかのような作品になってしまったのが惜しまれる。

確かに、業田良家のしっかりした原作に基づいた作品のプロットは素晴らしい。そして主演のぺ・ドゥナは役者として間違いなく逸材だ。特にこの作品で求められる「人間みたいな人形」に見事になりきっているという点で。撮影のリー・ピンビンの映像も幻想的で美しい。だが、是枝裕和監督が、実写化してまで伝えたかったことが私にはよく分からなかった。最後に「空気人形」がゴミ捨て場で朽ちていく姿も、本来ならば空気の抜けたビニールになるべきだが、ぺ・ドゥナの姿のままだった。彼女がより人間に近い存在になったという説明もなく、作り手が耽美的な映像を撮って自己満足しているようにしか思えなかった。

悪い映画ではない。だが、いろいろな要素や素材を捌くという点で、監督がもう少し主張してもよかったと思う。一番心に残ったのが、劇中に紹介された吉野弘の詩『生命は』だというのも、映画としてはどうかと思った。

生命は
自分自身で完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする

生命はすべて
そのなかに欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思えることさも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?

花が咲いている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光りをまとって飛んできている

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない
(『生命は』吉野 弘)