「ハルヒ」は「エヴァ」の継承者?

「痛いニュース」で知った日経ネットの記事。訳知り顔で「若者理解」とか平然と書く、このサブカル編集委員は、本当に痛い。類似点だの相違だの見当違いな分析して。だって、ハルヒってエヴァのパロディでしょ?

ハルヒ」は「エヴァ」の継承者か

テレビアニメも人気を集めている谷川流著「涼宮ハルヒの憂鬱」(角川スニーカー文庫
 「新世紀エヴァンゲリオン」(以下エヴァ)と「涼宮ハルヒの憂鬱」(同ハルヒ)。前者は約10年前に人気を集めたオリジナルアニメ。後者は2003年から刊行が始まった若者向けSF小説シリーズで、昨年テレビアニメ化され、やはり広く人気を得た。多くのアニメファンがネット上などで指摘しているように、両者にはさまざまな類似点があるのだが、似ているだけに違いが気になる。そこで両者の「違い」に着目し、いまの若者理解のヒントを探ってみたい。

10年間の変化・3つのポイント

 両作品の概略を、やや乱暴に要約すると、こうなる。

 エヴァの舞台は近未来の日本。主人公らは中学生。ふだんは学校に通うかたわら、人間に似た巨大な兵器に搭乗し、次々と攻めてくる人類の「敵」と戦う。細部の謎や登場人物の内面描写の話題もネットなどで話題になり、人気に拍車をかけた。

 ハルヒの舞台は現代の日本らしき街。主人公らは高校生。ハルヒという少女をリーダーに「SOS団」と呼ばれるサークルをつくり、学園生活や長期休暇を満喫しようとあれこれアイデアを練り、実行していく。実は主人公以外の主要メンバーは特殊な能力や使命を持つ存在だがふだんは隠している、という設定だ。

 かたや戦争、かたや日常。水と油のような2つの話は、よく似た構造を持つ。

 第1に人物配置(解説の後の人名はエヴァ/ハルヒの順)。

 主人公=押しの弱い少年(シンジ/キョン)

 表のヒロイン=勝気で周囲を振り回す少女(アスカ/ハルヒ

 裏のヒロイン=無口な仕事師(レイ/長門有希

 親友=気障だが優秀な同性の友人(カヲル/古泉)

という具合。それぞれ「振り回されたい」「頼られたい」「頼りたい」という主人公の願望を満たす存在か。表面上は「仲間」だが秘密を持ち、心から信じあっているわけではない点も両作品に共通する。昔のSFアニメと異なる点だ。

 では逆に、片方にあって片方から消えているものは何か。

 エヴァにあってハルヒにない存在は父親と上司だ。主人公の少年と強い父親(戦闘集団内では上司でもある)の葛藤はエヴァの主要テーマの1つ。

 エヴァになかったがハルヒで新登場したのが「萌え担当」と称する女性の先輩「みくる」だ。やはり押しが弱く、常にハルヒの言いなり。水戸黄門における由美かおるのように「健康なお色気(死語か?)」場面で活躍する。(ただし彼女も由美かおる演じる女忍者同様、裏の顔を持つ。)

 主人公を圧迫する怖い存在が消え、(表向きだが)言いなりになる「おもちゃ」が加わった。これがポイントその1。

 第2は物語の重心の置き方。エヴァは「人類の命運をかけた戦闘」を表の物語に、「主人公らの葛藤、成長、崩壊」を裏の物語に話が進んだ。しかし相当数のファンはテレビ版の最終回に、ごく短時間だけ登場した短いエピソードに激しく反応した。つらい立場に追い込まれた主人公が、「もう一つの世界」の自分たちを垣間見る場面。戦闘はなく、自分もふつうの中学生で、高飛車な美少女は気さくで、無口な少女は明るく、女性上司は話の分かる担任教師に「変身」していた。この場面は「学園編」と自然発生的に名づけられ、最初はファン自身の手で、後にはオリジナル作品の製作者自身の手で、二次的な創作作品が多数つくられ、ビジネスとして大きく展開された。精神崩壊せず、平和な世界で楽しく暮らす主人公やヒロインを見たい。戦闘するにしても、あくまで「普通のロボットアニメ」的に分かりやすく。そんなファンの願望の表れだ。

 一方の「ハルヒ」は、一見平和な学園生活を描きながら、「この世界」を存続させるためハルヒ以外の主要人物が常に「戦い続ける」物語だ。学園と戦闘。エヴァと同じだが主従は逆で、日常の中に時おり非日常が姿を見せる配分。これがポイントその2だ。

 ハルヒでは「この世界」を壊すエネルギーの源泉は、ある登場人物の心の中にある。一方エヴァも、古いアニメに似て、一見外敵と戦う物語として始まりながら、最後は世界を作るのも壊すのも「人の心」だ、という予期せぬ主題に行き着いた。エヴァとハルヒはこの点でも、一見対照的だが実はつながっている。

 第3は、評論家の東浩紀氏のいう「ゲーム的リアリズム」の問題だ。

 通常、創作物は、監督なり作家なりの考えた、ただひとつの物語を持つ。結末も原則的にひとつだ。「考えた末にやめた」とか「本当はこうしたかったが予算の関係で変更」といった「もうひとつの結末」もありうるが、あくまで「本当の」結末は完成品ひとつしかない。

 これに対しゲームは違う。プレーヤーの選択で結末は変わる。バッドエンド(悪い結末)に至っても、次は途中の手がかりなどを注意深く集め、判断を間違わなければ、いつかはハッピーエンドにたどり着くかもしれない。種明かしを掲載した攻略本を見ながらプレーすれば誰でもハッピーエンドを味わえる(それで楽しいか、という問題は別として)。

 現実は一回性のものではなく、何度でもやり直せる。この感覚が東氏のいう「ゲーム的リアリズム」だ。「ひぐらしのなく頃に」という、主人公らが同じ事件を何度も体験しなおすゲーム(サウンドノベルというべきか)が人気を集めたのも、こうした感受性の変化と無縁ではないという。

 「エヴァ」では、上に述べた「もうひとつの平和な学園世界」のくだりで「やり直し」の可能性を垣間見せた程度だった。10年前の映画版では、テレビ版最終回をリメークしたが、一見異なる話を「最終回」として描きつつも、総監督は描き方を変えただけで「同じ話」だと力説していた。このあたり、やはり昔の世代だな、と感じる。

 「ハルヒ」の物語ではやり直しが普通に行われる。たとえばある話では、主人公は何万回目だったかの「高1の夏休み」を体験している。主人公もその状況を理解し、脱出の「カギ」を見つけようと苦労する。まさにゲーム的な展開だ。これがポイントの3。

 まとめるとこうなる。

 その1。自分に命令する者、規範を語る者を忌避し、「都合よく言いなりになるもの」を欲する。(みくるにさまざまな命令をくだすのは主人公の少年ではなく少女ハルヒだが、男性視聴者がこの瞬間だけはハルヒに同化していることは想像に難くない。)豊かな胸と受容的な性格は、理想の母親の象徴でもある。エヴァは母親に捨てられた子供たちの物語だった。

 その2。ひとつの戦いに「すべてを賭ける」ことより「日常」を愛する。自分は本来、ヒーローという柄ではない、とも思う。ただし退屈も嫌なので、少しだけ「向こうの世界」にも触れていたい。

 その3。「この現実」が唯一の現実ではない。バッドエンドなら(あるいはそうなりそうなら)やり直せばよい。

 これがエヴァからハルヒまでの10年の変化だ。主人公の「成長」を描こうとしたはずのエヴァが、作り手の予期せぬ部分(終わりなき日常)で人気を博し、その人気の内実をきっちりマーケティングに(無意識であれ)生かしたのがハルヒという作品ではないか。

 「もしやハルヒ世界のすべては、(エヴァの主人公である)シンジの妄想では?」

 そんな「邪推」を楽しみたくもなる。


「別の現実」求める若者心理

 こうした感受性の変化は、「成長」や「拡大」を望みにくい成熟社会への適応と言えなくも無い。生まれ変わりを信じる若者が増えている。「前世が見える」のを売り物にしたタレントがゴールデンタイムのテレビ番組を仕切る。短期間で職場を変える若者は景気の良し悪しにかかわらず減らない。「今とは違う現実」「もうひとつの世界」を見せてあげよう。そんなビジネス(占いから転職支援まで)は、当面、有望分野であり続けるだろう。当の若者は甘いささやきに乗せられないよう注意しなければならない。残念ながら「この現実」は一つしかなく、「この人生」は誕生から死まで一直線につながっている。分岐はいくつもあるが、戻ってやり直すわけにはいかない。

 ところで、今年秋、エヴァのリメーク版映画の第1弾「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」が公開されヒットした。根強い人気を証明した形だが、ただの作り直しではなく、10年前の旧作とのつながりを示唆する場面がいくつかあった。旧世代の作り手もまた「やり直しアリ」のゲーム的リアリズムを受け入れたのだろうか? 来年の第2弾以降の展開を注視したい。

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